とっても悲しいことだけれども、今時の川や湖の多くは、はぶっちゃけ「自然っぽい釣り堀」「巨大な生簀」と化してしまっているような気がしてならないです。
その原因は、「川や湖を泳ぐ魚の数に対して、釣り人の割合が余りにも多すぎる」ことに集約されているような気がします。
さらに、水辺環境を利用しているのは釣り人だけではないことも忘れてはなりません。
水辺でバーベキューをする家族、カヤックやウィンドサーフィンを操る愛好家、観光船やスワンボートで楽しむ観光客、散策を楽しむカップル、バードウォッチングを楽しむ鳥類愛好家・・・。
水辺環境は、釣り人だけのものではないでしょう。
そして、多くの水辺環境利用者のなかで、「釣り人」と呼ばれている人たちは、とりわけワガママであるという烙印を押されてしまっていることを忘れてはなりません。
自分はちゃんとしているつもりでも、過去において一部の釣り人たちがそうであったために、魚釣りをしない人たちからみれば、どんな釣り人であっても、ひとくくりで「釣り人」なんですよ・・・。
釣り人同士では、「フライマン=鼻高々」「エサ釣り師=乱獲者&密漁者」「ブラウンを狙う釣り人=密放流&バサーと同じ」などと、極一部の極論を論じる人が存在するために、低レベルな次元でひとくくりにしてしまいがちですが、遥かにハイレベルな場所では、「釣り人」とひとくくりにされてしまっているのですよ。
そんな釣り人が余りにもたくさんいるために、「自然っぽい釣り堀」「巨大な生簀」が各地で誕生しているのだと感じます。水辺環境に溢れる釣り人たちの需要に対応した形で、内水面の水中はもはや多国籍国家になりつつあるのではないでしょうか?
だから、釣り人がどんなにホエたところで、釣りをやらない人の目からみれば、全く説得力に欠けてしまっているんです。ぶっちゃけ、釣りをやらない人から釣り人は白い目で見られているのだと感じます。
ではさて、そんな釣り人たちが水辺環境における発言力を回復していくためにはどうすればいいんでしょうか?
まずは、釣り人としての極論を排除することから始め、誰にでも納得の行く普遍的な真理を追究することから始めなければならないでしょう。だって、釣り人としての極論は、どんなに声高に叫んだところで、所詮釣り人の都合を極限にまで考えたに過ぎないのですから。そんなの釣りをやらない大多数の人たちに受け入れられるはずがないですもの・・・。
さあて、どうしようかなあ・・・。
