An tragedy in commons or anti-commons

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先日のシーバス&メバル釣行では、3名の食卓を十分に潤すだけの獲物が釣れた。

シーバス(フッコ・スズキ)は、ルアーやフライであきれ返るほど良く釣れて、どれもギンピカの魚体だったのでフッコサイズを持ち帰った。

船長が活性渋い渋いとぼやいていたメバルだったが、それでも十分満足が行くほどよく釣れて、小さいのは全てリリース、煮つけでおかずにできるぐらいの大きさを数匹キープし残りを分け合った。

珍しくアイナメも釣れたので刺身にして食べようと思う。

しかし東京湾はなんでこんなに釣れるのだろう?

そして、海も想像以上にきれいになっているし...

反面、三浦半島のオカッパリはなんであんなに釣れないんだろう?

その答えは「共有地の悲劇」「非共有地の悲劇」という言葉に集約されているような気がする。

「共有地の悲劇」とは「だれでも簡単にアクセスして利用できる場所やものは必ず荒廃する」という現象で、「非共有地の悲劇」とは「みんなで分かち合うべきものが共有されなくて、ごく一部の人だけしか利益を享受できず、宝の持ち腐れになってしまう」という現象だ。

主に環境科学で頻繁に使用されている言葉だけれども、釣りの世界やインターネットの世界でも十分に該当する部分があるように思う。


気軽に立ち入ることができる漁港や磯場は景観は抜群、東京から近いこと、ルアーフィッシングでのメバルやカサゴ釣りはブームということもあり、週末、平日、昼、夜を問わず、釣り人が押しかける。こうした場所でも漁協による稚魚放流は実施されているはずだと思うが、入れては抜かれ、抜かれては入れ、のいたちごっこで、魚は常に釣り人から釣られてしまうプレッシャーを受けつづけ、魚影も薄い。

これはあたかも関東地方の渓流の状況と酷似しているように思う。

思うに、東京湾は各釣り団体の寄付で放流が盛んに行われている。そして海岸は大企業のコンビナートが隣接し、一般人は立ち入り禁止となっている区域が多い、20トンクラスの遊漁船も入れないような浅場も多い、オカッパリから釣りができる範囲が極度に限定されている、それらが要塞となって魚が守られて、さらに各企業の環境に対する取り組みの成果で水質がどんどん改善されている、「東京湾」というイメージが先行してヤリタガラナイ釣り人も少なくない、よって、「景観が...」というのがタマニキズだけれども、豊富な漁獲資源が残る環境が確立されている、ということだろう。

これはあたかも自然の要塞に守られた源流や秘境の魚達に酷似しているように思う。


で、話は戻るけれども「共有地の悲劇」という概念で「囚人のジレンマ」や「フリーライダー」という言葉がでてくる。各用語の解説については、関係する文献を参照されたし。


要は「開かれた集団の中でどのような身の振り方をするのが自分にとって得になるかという打算的な言動(囚人のジレンマ)」とか「コミュニティの中で、協力することによる損失を受けず、他人を出し抜いてひとりだけがオイシイ思いをするような非協力的な行動(フリーライダー)」とかの話だ。


周囲の釣り人たちの顔色や様子を伺いながら、どのように振舞うのが自分にとって利益になるかを計算ながら行動したり、自分では有益な情報を発信したり環境美化のために時間と労力を提供しないで、他人が公開している情報のおいしい所だけをタダで利用するようなフリーライダー(出し抜き者)が後を断たない。


周囲の釣り人を見渡すと、例外なくそうした釣り人を見つけることができるし、インターネットの世界でも然りだ。「魚がいない」と漁協に文句を垂れる釣り人なんかは正しく「共有地の悲劇」の代表的なケースだろうし、インターネットの世界では「情報の再配布」とかがあるので一概に断言できないけど、「記事やサイトの更新」を要求する人の存在は、サイト管理人にとっては「共有地の悲劇」にほかならない。


「囚人のジレンマ」に悩む人や「フリーラーダー」な方々に対して、

「自分だけが楽しければいいのか!」っと、声を大にして叫びたい、なぁ...A(^_^;


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