吾輩は鱒である 第1章③

ここへ這入(はい)ったら、どうにかなると思って堰堤の崩(くず)れた穴から、とある瀬尻にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの堰堤が崩れていなかったなら、吾輩はついに河原に餓死(がし)したかも知れんのである。一樹の蔭とはよく云(い)ったものだ。この堰堤が崩れは今日(こんにち)に至るまで吾輩が隣家(となり)の山女を訪問する時の通路になっている。さて瀬尻へは潜り込んだもののこれから先どうして善(い)いか分らない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予(ゆうよ)が出来なくなった。仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へと泳いで行く。今から考えるとその時はすでにポイントに這入っておったのだ。ここで吾輩は彼(か)の釣り人以外の人間を再び見るべき機会に遭遇(そうぐう)したのである。第一に逢ったのがフライマンである。これは前の釣り人より一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり釣り針に掛けて田茂(たも)へ抛(ほう)り入れた。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再び田茂(たも)の隙(すき)から瀬頭へ逃げ出した。すると間もなくまた釣られた。吾輩は釣られては逃げ出し、逃げ出しては釣られ、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。その時にフライマンと云う者はつくづくいやになった。この間フライマンの毛鉤(けばり)を見切ってこの返報をしてやってから、やっと胸の痞(つかえ)が下りた。吾輩が最後に釣られたときに、この漁協の監視員が騒々しい何だといいながら出て来た。フライマンは吾輩をぶら下げて監視員の方へ向けてこの腹減らしの小鱒がいくら釣っても釣っても毛鉤に食いついてきて来て困りますという。監視員は鼻の下の黒い毛を撚(ひね)りながら吾輩の顔をしばらく眺(なが)めておったが、やがてそんならやさしく逃がしてやれといったまま奥へ這入(はい)ってしまった。監視員はあまり口を聞かぬ人と見えた。フライマンは口惜(くや)しそうに吾輩を瀬頭へ抛(ほう)り出した。かくして吾輩はついにこの川を自分の住家(すみか)と極(き)める事にしたのである。

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