吾輩は鱒である 第1章⑧

「どうも甘(うま)く釣れないものだね。人のを見ると何でもないようだが自(みずか)ら竿をとって見ると今更(いまさら)のようにむずかしく感ずる」これは監視員の述懐(じゅっかい)である。なるほど詐(いつわ)りのない処だ。彼の友は金縁の偏光越(へんこうごし)に監視員の顔を見ながら、「そう初めから上手には釣れないさ、第一河原の練習ばかりで魚が釣れる訳のものではない。昔(むか)し仏蘭西(フランス)の先人たちが言った事がある。魚を釣るなら何でも自然その物を観察せよ。天に星辰(せいしん)あり。地に露華(ろか)あり。飛ぶに禽(とり)あり。走るに獣(けもの)あり。淵に鱒あり。枯木(こぼく)に寒鴉(かんあ)あり。自然はこれ一幅の大活画(だいかつが)なりと。どうだ君も魚らしい魚を釣ろうと思うならちと自然観察をしたら」
「へえ先人たちがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」と監視員は無暗(むやみ)に感心している。金縁の裏には嘲(あざ)けるような笑(わらい)が見えた。
その翌日吾輩は例のごとく瀬脇に出て心持善くクルージングをしていたら、監視員が例になく河原から出て来て吾輩の後(うし)ろで何かしきりにやっている。ふと眼が覚(さ)めて何をしているかと一分(いちぶ)ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなく先人を極(き)め込んでいる。吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった。彼は彼の友に揶揄(やゆ)せられたる結果としてまず手初めに吾輩を観察しつつあるのである。吾輩はすでに十分(じゅうぶん)泳いだ。ライズがしたくてたまらない。しかしせっかく監視員が熱心に観察しているのを動いては気の毒だと思って、じっと辛棒(しんぼう)しておった。彼は今吾輩の捕食物をかき集めて網のあたりを覗いている。吾輩は自白する。吾輩は鱒として決して上乗の出来ではない。背といいヒレといいパーマークといいあえて他の鱒に勝(まさ)るとは決して思っておらん。しかしいくら悪食の吾輩でも、今吾輩の監視員に分析されつつあるような妙な捕食物とは、どうしても思われない。第一虫が違う。吾輩は本流産の鱒のごとく黄を含める銀白色に漆(うるし)のごとき斑入(ふい)りの皮膚を有している。