吾輩は鱒である 第1章⑩

我儘(わがまま)もこのくらいなら我慢するが吾輩は釣り人の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
吾輩の川の下流に十坪ばかりのプールがある。広くはないが瀟洒(さっぱり)とした心持ち好く日の当(あた)る所だ。フライマンたちががあまり川面を叩いて楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然(こうぜん)の気を養うのが例である。ある小春の穏かな日の二時頃であったが、吾輩は昼飯後(ちゅうはんご)快よく一睡した後(のち)、運動かたがたこのプールへとヒレを運ばした。流下する虫を一匹一匹食いながら、西側の梅花藻のそばまでくると、梅花藻を押し倒してその上に大きな鱒が前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのも一向(いっこう)心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな鼾(いびき)をして長々と体を横(よこた)えて眠っている。他(ひと)の淵に忍び入りたるものがかくまで平気に睡(ねむ)られるものかと、吾輩は窃(ひそ)かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒鱒である。わずかに午(ご)を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛(な)げかけて、きらきらする柔毛(にこげ)の間より眼に見えぬ炎でも燃(も)え出(い)ずるように思われた。彼は鱒中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立(ちょりつ)して余念もなく眺(なが)めていると、静かなる小春の風が、梅花藻の上から出たる梧桐(ごとう)の花を軽(かろ)く誘ってばらばらと二三枚の葉が淵の流れに落ちた。大王はかっとその真丸(まんまる)の眼を開いた。