吾輩は鱒である 第1章⑮

プロタイヤーといえば吾輩の監視員も近頃に至っては到底(とうてい)タイイングにおいて望(のぞみ)のない事を悟ったものと見えて十二月一日の日記にこんな事をかきつけた。

○○と云う人に今日の会で始めて出逢(であ)った。あの人は大分(だいぶ)放蕩(ほうとう)をした人だと云うがなるほど通人(つうじん)らしい風采(ふうさい)をしている。こう云う質(たち)の人は山女魚に好かれるものだから○○が放蕩をしたと云うよりも放蕩をするべく余儀なくせられたと云うのが適当であろう。あの人のフライロッドはバンブーだそうだ、羨(うらや)ましい事である。元来放蕩タイヤーを悪くいう人の大部分は放蕩をする資格のないものが多い。また放蕩タイヤーをもって自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多い。これらは余儀なくされないのに無理に進んでやるのである。あたかも吾輩のタイイングに於けるがごときもので到底卒業する気づかいはない。しかるにも関せず、自分だけは通人だと思って済(すま)している。芦ノ湖の鱒を釣ったりキャスティング練習するから通人となり得るという論が立つなら、吾輩も一廉(ひとかど)のプロフライマンになり得る理窟(りくつ)だ。吾輩のタイイングのごときはかかない方がましであると同じように、愚昧(ぐまい)なる通人よりも山出しの大野暮(おおやぼ)の方が遥(はる)かに上等だ。
通人論(つうじんろん)はちょっと首肯(しゅこう)しかねる。またバンブーフライロッドを羨しいなどというところはプロタイヤーとしては口にすべからざる愚劣の考であるが、自己のタイイングにおける批評眼だけはたしかなものだ。監視員はかくのごとく自知(じち)の明(めい)あるにも関せずその自惚心(うぬぼれしん)はなかなか抜けない。中二日(なかふつか)置いて十二月四日の日記にこんな事を書いている。